Digital Museum for Endangered Languages and Cultures The Ryukyu Archipelago: Nishihara, Miyako Islands

デジタル博物館「ことばと文化- 琉球列島」宮古諸島 西原地区

年表

宮古島の交易、人頭税、古謡等を取り巻く歴史と歴史資料を読む

?~前1100  中国最古の王朝の殷墟から貨幣として使用された子安貝が大量に出土している。(資料:琉球・沖縄史) 中国沿岸には子安貝は生息しないので、アジア最大の産地である宮古島諸島近海でとれたものと考えられる。柳田国男はこれに注目し、中国から貝を求めてやってきた殷人が宮古島に稲作を伝え、それが北上して沖縄・奄美・九州へ伝わったという「海上の道」説を唱えた。しかし、いまのところこれを証明するものはなく、むしろ否定的な要素の方が強い。

北宋 熈寧年間(1068~1078)の古銭・熈寧(きねい)元宝が宮古の住屋遺跡から1982年に出土。(資料:宮古博物館)

1317    婆羅公管下密牙古人(はらこうかんかみやこじん)温洲永嘉縣に漂着。

(資料:温州府志)。撤里即地面(シンガポール)に行き貿易しようとしたが難破。

温州:中国浙江省南部の都市。通訳を通して話ができた。

※琉球人漂流民への中国の対応:台湾の学者陳大端先生の統計によると、雍

正・乾隆・嘉慶(1723~1820)の三代九八年間に、中国へ漂着、あるいは中国をへて帰国させられたらせられた漂流船は全部で144艘にものぼる。それだけ、琉球に対して親交があったと考えられる。

1349    察度(30歳)即位と伝わる。(資料:球陽)

羽衣伝説の話。

1372    中山王察度、はじめて明に朝貢する。(資料:球陽)

※進貢船は、中国から支給された。尚巴志の時代には、30隻の船が明から支給されたことが記録に残っている。乗組員の人数は当初、制限はなかったが、

1475年に一隻の乗りこみ人数は150人以内と決められた。

※この頃、目黒盛豊見親、与那覇原軍に勝つ。

※「目黒盛豊見親が島鎮めのアヤゴ」、「唐人渡来のアヤゴ」等。

1388    与那覇勢頭豊見親、白川浜より中山へ上る。(資料:宮古博物館)

球陽:宮古の与那覇勢頭豊見親、初めて款(カン)を中山に納る。

丑寅(うしとら)※那覇市泊村に石碑。

1390    宮古(与那覇勢頭豊見親)・八重山始めて来朝入貢す。(資料:球陽)

1404    冊封使時中、詔(みこと)を賚(たまう)して国に抵(あた)る。(資料:球陽)

※冊封船の大きさは明代には長さ50~60m、幅9~18m、4~15m、マストの高さは約22m。乗組員は400~500。大小2隻の船に分乗。福州から那覇港に着くのは 早くて3日、遅い時には19日も要した。

天順年間(1457~1463)宮古山の空広、中山に入覲(キン)す。(球陽)

1474 仲宗根豊見親、宮古島首長となると伝わる。(宮古博物館資料)(資料:球陽、宮古博物館)

1477    朝鮮済州島人漂流(資料:朝鮮王朝実録 琉球資料集成)

1500    中山王府、八重山に遠征してオヤケアカハチを討つ。(球陽)

宮古・八重山に頭職を置く。(球陽)(資料:球陽、宮古博物館)

※このときから、首里王府の実質的に認める主長と考えられる。また、このときから八重山の統治者は王府派遣の役人ではなく、仲宗根豊見親の二男、ついで三男を配置。三男は八重山の女性を娶ったようだ。八重山は仲宗根豊見親の支配にあったためにかなりの抵抗があったようだ。

※この頃の歌謡として「仲宗根豊見親、主長となりし時のアヤゴ」、「仲宗根豊見親初めて年貢を捧げて上国せし時のアヤゴ」、「根間ぬ主」、「四島の主のアヤゴ」、「古見の主がオヤンマのアヤゴ」、「いきぬ ぷーず」等がある。

1513 金志川那喜多津(キンスキヤーナキタツ)、大般若経(だいはんにゃきょう)、

600巻を求む。(球陽176、「宮古史伝」)

1522   与那国の鬼虎、仲宗根豊見親に討たれると伝わる。(資料:球陽、宮古博物館)

※池間からの参加者は「29、池間生まれ、あげましのけざ(ぎさ)」、「はなれ生まれ、尻(しし)の座(ざあ)のぜん、」の二人。

※この頃の歌謡は「仲宗根豊見親与那国攻入のアヤゴ」、「鬼虎の娘のアヤゴ」、「可憐なる鬼虎の娘を歌いしアヤゴ」がある。

1522(嘉靖壬午)宮古山の鯖祖氏玄雅、宝劒(ケン)を献上す。(資料:球陽)

翌年の夏、亦中山に入覲(キン)し、恭しく金銀簪二(金鳳銀茎一・獅銀茎一)

・白絹衣裳を賜はりて帰島す。(181球陽)

1532   仲屋金盛友利の金志川那喜多津を討つと伝わる。仲屋金盛、中山王・尚清より、咎めを受け自害し、豊見親の称号、廃止されると伝わる。(球陽、「宮古史伝」)

1532   おもろさうし第一巻編集

1583   宮古上布のはじまり

1592   豊臣秀吉、朝鮮侵攻のため琉球に賦役を命ずる。(資料:宮古博物館)

1597  長真氏砂川親雲上旨屋ら中国から薩摩芋を持ち帰ると伝わる。(資料:宮古博物館)

1605  野国総管福州より甘藷を持ち帰る。(資料:球陽)

※サツマイモの原産地は中南米でコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰ってヨーロッパに広められたものだと言われている。それがスペイン人によって東洋に伝えられ、フィリピンから中国、中国から琉球にもたらされた。

1609  薩摩藩が琉球王国を軍艦100余隻、3000の兵で制圧。(資料:球陽、琉球・沖縄史、宮古博物館)

※薩摩の琉球侵攻の主な理由:

※7000人の10カ月分の兵糧米と名古屋城建築の負担金:半分は調達、残り半分は薩摩から借りて納めたが返納せず。

※1602年、陸奥国・伊達領内に琉球船が漂着した。翌年、家康は島津氏に命じて、琉球人を送還し、琉球国王に幕府への聘礼(へいれい)を促した。家康は、琉球を幕府に従属させ、明との貿易の復活交渉に利用しようと考えた。

1611  薩摩藩、琉球(宮古・八重山を含む)の検地を実施する。(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館)

※琉球の総石高8万3080石、宮古1万1288石、八重山5980石。

※三重・四重・五重支配:薩摩・首里王府・在番・村番所・村の5人組

1611  祥雲寺創建される。(資料:球陽、琉球国由来記)

1614  諸村に番所を設ける。(資料:宮古博物館)

1619  宮古・八重山に、績織の房(ブンミャー)を創建す。(資料:球陽)

1624  八重山キリシタン事件起こる。(資料:八重山島年来記、琉球・沖縄史)

鎖国政策、キリスト教弾圧。

1628  麻姑山、始めて平良・下地・砂川の三郡に分つ。

1629   宮古に二年勤務の在番が設置される。

1637  宮古・八重山に人頭税制定める。(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館) 宮古在番二人制になる。

1647 宮古在番三人制となる。(在番一人、筆者2人)

1659  先島の貢租を上布で代納せしめる。

1678 与世山親方宮古島規模帳出される(資料:宮古島市教育委員会、球陽)

1686  川満村、佐和田村建つ。(雍正(ようせい)旧記)

1714  宮古山に、嘉手苅邑並びに大浦邑を建つ(資料:球陽)

1716  野原村、保良村建つ。(球陽)

1725  長間村建つ。(球陽)

1727  西里村建つ。

1727  比嘉村建つ。

1728  太平山池間邑、民居繁衍(エン)し、伊良部島に移す。(資料:球陽)

1729  宮古・八重山の役人に系図所持を認可。(資料:球陽)

※首里王府は首里・那覇に遅れること40年、再三にわたる地元頭らの要請に応えて、宮古・八重山の役人に系図の所持を認可した。統治者たる士身分(系持ち)生産者たる百姓身分(無系)を明確にした。系持ちは役人への予備軍であり、無系は余程の例外でもない限り生涯百姓身分のままである。施政の府たる蔵元並び村番所の定員は限られており、この狭き門への登用、昇任等の仕組みそのものが、一層役人の腐敗を生じさせ、綱紀の粛正を指弾させる一つの大きな要因をなしていたと言える。

1737  国仲村設立(池間村より分村)。(資料:宮古博物館紀要(雍(ヨウ)正旧記または宮古島在番記)

※綱紀の乱れと民衆:

近世末期には相次ぐ暴風、旱魃、疫病、飢饉などの天災が頻発して、民衆は苦境に、呻吟していたが、貢租の取り立ては厳しい。近代資料では士族の滞納分は数年語には今でいう「不納欠損」で処理されるのに、百姓には容赦なく家財処分までして納付させる有様である(笹森儀助「南島探検」1893年)。近世にあってはもっと厳しい差別がなされたことであろう。加えて、役人の綱紀は乱れ、不正は頻発する。忍耐には限りがあろう、たまりかねて首里王府に直訴するもの、中に役人の中から薩摩藩在番に訴えようとする者も出る。ムシロ旗こそ掲げないが「百姓一揆」とみなす研究者もいる。

1766  仲地村、長浜村、前里村建つ。

1771(明和8)大津波あり。  

1846  宮古島平良に南北学校開設。

1849  割重穀(わりかさみこく)事件。(資料:宮古博物館) 

1851  宮古に大暴風雨・飢饉・コレラ猖獗(しょうけつ)死者千人。

1854  多良間騒動。(資料:宮古博物館)          

1860  落書事件。(資料:宮古博物館)

1871(明治4)廃藩置県(琉球処分)(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館)

1871  宮古島民遭害事件(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館)

1873  台湾出兵(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館) 

1873  ロベルトソン号救助(資料:宮古博物館) 

1874(明7) 西原村設立(池間村より分村)(資料:宮古博物館紀要(雍(ヨウ)正旧記、宮古島在番記)

1879  サンシー事件起こる。

1880(明13) 分島問題(資料:宮古博物館)

1892(明25) 宮古で人頭税廃止運動起こる(資料:琉球・沖縄史、宮古博物館)

奈良原知事来任する。

1893(明26) 宮古農民、国会に請願する。この年琉球新報創刊される。

1994(明27) 帝国議会、宮古農民の人頭税請願を採択。

1894(明27) 名子(なご)・蔵元制度廃止さる。新知事奈良原繁、宮古島視察。

※名子(なご)の持てる数:頭は8人、大安母・首里大屋子は7人、与人は6人、目差は5人、若文子は4人、・・・。

1846年には3300人余

1894(明27) 日清戦争起こる。

1898(明31)  間切・島規程公布される。(翌年実施)

1903(明治36) 人頭税廃止、地租条例実施される。(資料:宮古博物館紀要、琉球・沖縄史)

1905(明治38) 久松五漁夫、八重山通信局から「敵艦見ゆ」を打電。(資料:宮古博物館紀要、宮古博物館) 

1906 (明治39)  池間でカツオ漁始まる。(資料:宮古博物館)  

(文責 仲間博之)